ぺこぱの台頭に見るこれからの共生社会の在り方に対する考察 ~失われた時を求めて~
昨今、人々の暮らしにおいては、「社会的孤立」の問題や、制度が対象としないような身近な生活課題(電球の取り替え、ゴミ出し、買い物や通院のための移動)への支援の必要性の高まりといった課題が顕在化している。
また、軽度の障害を抱え様々な問題を抱えているが、公的支援制度の受給要件を満たさない「制度の狭間」の問題も存在する。
こうした課題の多くは、かつて我が国において存在したとされる地域や家族などのつながりの中で対応されてきた。しかし、高齢化や人口減少の急速な進行を背景に、地域のつながりは弱まっている。また、高齢化や生涯未婚率の上昇により、高齢者のみの世帯や単身世帯の増加などにより家庭の機能の低下も生じている。
さらに、テクノロジーの著しい進歩の代償として、多くの場合これまで直接目にすることのなかった社会に蔓延する誹謗中傷などの情報を受け取ることが容易となっており、多くの人は新しい情報に対する依存を自覚することなく、スマホの中毒状態に陥っている。
現代社会において、人々は人類史上初めての孤独を体験し、傷ついている。優しい世界に触れたい。人々は心の奥底でいつもそう思っている。そんな時代だ。
令和元年の暮れ、テレビに現れたのは、世間の物差しで見ると、否定され、あるいは指を刺され、蔑まれるはずの対象(ボケ)を、一度否定しようと試みようとするも、思い直してはことごとく肯定し、むしろ自分の概念に疑問を持ち(時には舞台の正面がどちら側かさえも)、たどり着いた思想を世界と共有しようとさえする芸人だった。間違いはふるさとだ、誰にでもある、と。
多様性の尊重こそが、個人の尊厳や基本的人権の根拠である。相方に「おかしいだろ」とつっこむとすごく寂しそうな顔をしていた、それがつっこみによる否定をやめた原因だ。笑う人もいるかもしれない。おかしいだろうか?身近な人を笑顔にできなくて何がエンターテインメントだ。
そして大切にしなければならないのは現実世界の隣人だけではない。インターネット上の投稿を目にする人すべてもあなたの隣人である。社会とは自分と身の回りにいる人たちの関係性のことだからだ。
優しいお笑いのみをこれからのお笑いの在り方であると主張しているわけではない。お笑いにも多様性があり、様々なスタイルがある中で、今回の賞レースで爆発した優しいお笑いに時代を感じたというだけである。そもそもボケ×肯定(あるいは優しさ)というスタイルは、彼らが確立したわけではない。東京ダイナマイト、おぎやはぎ、トータルテンボスのネタにもそういったスタイルは散見される。
「誰も傷つけないお笑い」そんなものは存在しない。笑いと哀しみは表裏一体だからだ。もしかするとその優しいお笑い芸人に似てるというだけでいじめられる子どもがいるかもしれない。そういうことだ。
彼らのお笑いのもっとも抱腹に値するところは、ア行がファ行に置換される点である。「お年寄り」のことを「フォ年寄り」、「お手本」のことを「フォてフォン」という。しかも、そのルールは(意図的かどうかは判別しようがないが)けっこう破られている。その未完成さを含めて面白おかしい。
我々は、時を巻き戻し、ただ単に、かつて存在したとされる形での支え合いの社会に戻るべきではない。今と昔ではあらゆる条件が違いすぎるし、失ったものを求めても取り戻すことはできない。キーワードは多様性であり、個の尊厳の尊重であり、優しさだ。人々がそのことを意識することでやっと、破滅に向かう国を再建するスタート地点に立てるのだ。
文:90年代輸入盤CDのライナーノーツの温度で社会に対する風刺を交えてお笑い評論を試みるがただ単に笑いのツボめっちゃ浅いおじさん
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by zooey0719
| 2019-12-25 07:14
| 雑記